松が浦島とは云えここは決して島ではないのです。岩山が海に突き出た岬なのです。もともとは鴻が崎と呼ばれていたのです。この鴻(こう)とは国府(こくふ)がなまった言い方なので国府が崎を意味しているのです。つまり国府多賀城と密接な所の意味であるのは当然です。国府多賀城の東門を東へ行けば行き着く所は塩釜の浦です。『塩釜の浦・津』は国府多賀城を担う重要な海上輸送の国府の津であったのはご承知の通りです。塩釜国府津・湊浜国府が崎も国府多賀城にとって極めて重要な海の接点に変わりはなかったのです。それが鴻が崎の西にある湊浜です。当時湊浜は内陸泉岳を源とし岩切を横切り 多賀城の足元を流れる冠川(現七北田川)が近世初めに仙台蒲生の湊へ付け替えられるまでは多賀城八幡を真東に流れ現砂押川となって七が浜の湊浜で太平洋に注いでいたのです。その名残が弁天沼で流れの近くの旧河道脇の山すそに薬師堂があり湊薬師で夜明けの薬師とも呼ばれていて(宵の薬師は岩切東光寺 夜中の薬師は利府菅谷にある)当時の賑わいの一端を見るのです。。此処湊浜は河口港であり 水門(みなと)であったのです(湊は水門で河口を意味する。つまり内陸 岩切 多賀城国府と外洋とが冠川を通してここ湊浜で直接繋がっていて 謂わば古代 中世の仙台港であったのです。さらに往時は多賀城南部 仙台市田子辺りまでは入海 入り江であったからその入り口にあり 背後に直接国府を背負う湊浜の賑わいは塩釜の津以上ではなかったろうかと思われる。こうした港湾としての湊浜に終止符を打たれたのが近世初め仙台藩によって行われた冠川の付け変え工事であった。1664年(寛文4年)から10年かけて岩切新田から南に流れを変え直接仙台蒲生浜に変更されたのでる。その上さらに塩釜の浦から蒲生の浜に船入堀(貞山堀)がひかれたため湊浜は完全に内陸との道を閉ざされその役割を終え一寒村に変わり果てた。地図を見てもそこに今水門(みなと)があった形跡は一欠けらも見当たらず平凡な海岸しかないのは淋しいかぎりだ。ところが今この平凡な湊浜も実は古代の夢踊る場所だったのを知る人は少ないのです。ここ湊浜は日本書紀景行天皇条に見える日本武尊の陸奥蝦夷東征の折 『・・・海路をとって葦浦を廻り玉浦を横切り蝦夷の境に至る 蝦夷の賊首嶋津神・国津神たちが竹水門に集まって防ごうとした。 しかしはるか王の船を見てはじめからその威勢を恐れて心のうちで勝てぬと思い・・・』とあるが日本武尊上陸の地 竹水門(たかのみなと)は実はここ湊浜と言うのです。竹水門は多賀水門であるが他にも竹水門を主張するのは茨城県多賀郡 福島県小高町など数箇所ありそれぞれにそれなりの理由をもちどれも魅力的なのである。上総を出れば比較的単調な東北の太平洋沿岸を北上した日本武尊が初めてぶつかる半島がここ七ヶ浜半島なのである。此処から北は地形が一変するリアス式海岸なのであることは重要で注目すべきだろう。誰でもぶつかれば上陸してみるか と思うのは自然である。しかもそこが景観抜群で河口があればそのまま川を遡るのもまた自然だろう。そこで『蝦夷の賊首嶋津神・国津神』と出くわしてもこれまた何と自然な事ではありませんか。そしてそこに基地 多賀の柵をこしらえるのも実に自然であったのです。国府多賀城が自然発生的に此の地に出来た訳が想像できる夢の地 それが自然一杯の松が浦島なのです。(平成15年7月24日)(参考 よみがえる中世 平凡社 宮城県の地名 平凡社 古代東北の王権 中路正恒 講談社  枕草子集註 大修館出版)
左上 貞山堀(伊達政宗の開削堀) 貞山橋からの塩釜の湊を見る
下左 弁天沼の弁財島の弁財天女を祀る祠  下右 塩竃湾からの貞山堀は七ヶ浜町(左)と多賀城市(右)とに分けて仙台湾に至る

                             
 松が浦島 
其の2