花万葉(海鳥社)と言う本の中に萩は山上憶良の『秋の野の七草』によると『花の第一はハギノハナ』とある。以来萩は秋の花の代表となり『草冠に秋』と書いて萩の字となったという栄光を得たのです。その萩と切っても切れないのが歌にあるように宮城野である。すでに清少納言の枕草子183野の段で京都の嵯峨野 奈良の春日野と同等に仙台の宮城野を載せ 更に118雨後の秋草段でも『・・・・萩などの、いと重げなりつる露のおつるに、枝のうちうごきて、人も手ふれぬ、ふとかみざまへあがりたる、いみじゅういとおかし・・・・・』と述べている。このように宮城野と萩と露は実に相性がいいのです。宮城野の萩の人気ぶりは陸奥守橘為仲が任期終えて帰京の際に12個の長櫃に萩を入れて持ち帰ったところ、二条大路は黒山の人だかりだったという事でも理解出来る。1200年前から都には宮城野の萩の風流が知られていたのです。当時の国府多賀城への東山道の途中にあり奥の平野と呼ばれ関東平野に次ぐ広さの仙台平野は遮るものさえない見事な萩の原だったに違いない。その見事な風景に命を落す者さえもいたのです。宮千代という若い僧である。松島の雄島で修行中の彼は歌の勉強をしたく師匠の見仏上人が危険だからと止めたにも関らず旅に出た。所がここ宮城野の萩を見て感激し
              月は露 露は草葉に 宿仮りて
と上の句を詠んだが下の句がどうしても出ず悶々としていたがついに悶絶して亡くなってしまった。それ以来宮城野には彼の亡霊が夜な夜な現れるとの噂が立つようになった。それを耳にした見仏上人が彼の墓に来て次の下の句を詠んだと言う。
              それこそそれよ  宮城野の原
それ以来亡霊が出なくなったと言う。今宮城野には宮千代町があり宮千代公園には彼の碑と塚がある。このように宮城野と萩の評判は半端ではなかったらしいのです。古来『名取を越せば宮城野よ』と云われたが 近代でも『心の宿の宮城野よ』と詩に詠んだ人がいるのです。あの島崎藤村だ。若菜集に

                道なき今の身なればか 我は道なき野を慕い
              思ひ乱れてみちのくの 宮城野の野に迷ひ来ぬ・・・・・

恋に破れた傷心の彼は東北学院大学で教鞭をとっていたが下宿先の名掛丁三浦屋から度々宮城野を逍遥したのだろう。然したった1年で上京してるので失恋した人の逃避でしかなかったのかもしれないね。
詩の題が『草枕』と言うのもまた清少納言の枕草子と似ていて奇遇である。この様に宮城野は古代から近代に到るまで多くの心ある人びとが憧れた日本を代表する歌枕の地だったのです。然し今やそんな風情を感ずる事が困難な程仙台は近代化してしまった。

                宮城野を 大根うえて へらしけり  遠藤日人(凡そ160年前)
                   
宮城野の 萩喰いさかる 軍馬かな   
高浜虚子
                宮城野の ひろきを萩の ところどこ   
河東碧梧
とあるように食糧増産の大根や野菜畑・軍都仙台第二師団・歩兵第四連隊の為に広大な宮城野原は消滅した。
(平成14年11月19日)(宮城県の地名 平凡社
  宮千代之跡 左 宮千代の墓 
宮城野区宮千代公園内 白萩町・萩野町・木の下町等萩にまつわる町名も多い 旧元荒町名も晩翠草堂前に碑がある
宮城野 
其の2