古来荒雄川(昔玉造川 今江合川)は大雨の度広大な宮城中北部の大崎平野を縦横無尽に流路をかえたと言う。見た事はないが大げさにいえば大河ナイルのデルタの河口の様にであろうか。そのせいかここには多数の細流が存在し、ササニシキ米の一大産地となったのである。総て荒雄川の名残の小川という。幸運にもその内の市の中心部を流れる一つの小川に荒雄川の命(緒)の枯れた川 絶えた川として緒絶川と名づけられ、そこに懸かる多くの橋の一つが緒絶の橋と言う栄光を得たのです。この陸奥一級の歌枕はここ古川市のど真ん中にあります。藤原定家や順徳院により全国歌枕100選の一つにも選ばれているのですが、芭蕉は奥の細道では道に迷ったふりをして石巻へ行き姉歯の松と緒絶の橋に寄らなかったのは彼の認識不足からだろう。この緒絶の橋のネーミングの由来ははっきりしないが万葉集に縁が有ると言うのだ。
      贈歌  真珠は 緒絶えしにきと 聞きしゆゑに その緒また貫き わが玉にせむ 巻16-3814
   
(真珠のような清らかで聖なる川の流れが途絶えてしまった と聞きましたので其の川の流れをまた通してよみがえらせたい思う)
  
    答歌  白玉の 緒絶は者信 然れども その緒また貫き 人持ち去にけり    巻16-3815
   (白玉のような川の流れが絶え命の絶えた川には橋だけが残りました けれどその流れを又通して流れは他の流れと合流してしまったよ)
者信(マコト)を橋と読み違えたという。所でこの真珠も白玉も玉造と無縁ではないだろう。北限の万葉歌は涌谷町の家持の陸奥山が定説でありこの贈答歌がここ古川市のものなら凡そ同じ緯度にあるので北限の歌は3首と言うべきだろう。所で緒絶の橋の喩えは”遂げる見込みのない恋 絶望の恋 道ならぬ恋”である。あの式子内親王の歌に 玉の緒=命 が実に見事に表現されている。
           玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする
とある。表に出せない恋 葉隠れの恋ともいうべき苦悩が見事に詠まれているのだ。橋は仲介 媒介 関係であり、陸奥は最果て 限りなく遥かで行けそうで行けないイメージであり禁断の恋にピッタリだったのだろう。「タブーでない恋は恋じゃない」 緒絶の橋はタブーの恋の橋 悲恋の橋 絶望の恋の橋なのだ。そう云う藤原道雅(992〜1054)も又タブーの恋の張本人なのである。三条天皇の皇女で前斎宮当子との禁断の恋である。斎宮とはご承知の通り天皇の即位毎に選定され、天皇の代理として天皇に代わって皇室の氏神である伊勢神宮仕えその大神を鎮撫奉仕する未婚の内親王のことである。彼女等との密通は天皇の怒りは勿論、神を汚し神を畏れぬ国家反逆罪のようなものであったのだ。勿論泣く泣く別れた末にその思いを込めた歌が見事に21世紀の今日緒絶の橋を一級の歌枕の地にさせたのである。恋のエネルギーの凄さであろう。斎宮との恋は勿論あの業平にもある。東下りしてここ玉造の地まで来た(事実ではない)彼は伊勢物語に
・・女のもとより詞はなくて
        君や来し 我や行きけむ おもほえず 夢か現か 寝てか覚めてか
男いといたう泣きてよめる
        かきくらす 心の闇に まどひにき 夢うつつとは こよひさだめよ
女は斎宮括子(文徳天皇の娘)であり 男は勿論業平である。あの恋の職人 恋の狩人業平が”いといたう泣きてよめる”とは何とも意外だが、それほど斎宮とのタブーの恋は特別らしいということか。一見の価値ある歌枕だ。
(参考古川市史 歌枕への理解 鰍ィうふう おくのほそ道 講談社学術文庫平成15年11月28日)
 
緒絶橋 其の2