西光寺 北村山郡大石団町大石田乙
月も日も 波間に浮かぶ 大石田 舟に宝を 積む心地せよ御詠歌 
 他に大石田には芭蕉縁の寺として浄願寺・乗船寺・向川寺などがある

芭蕉翁真蹟歌仙さみだれの碑 大石田町大石田
 元禄2年大石田を訪れた芭蕉と曽良は一栄と高鍬川水に俳諧の指導をし出来あがったのが歌仙さみだれの一巻で芭蕉自ら筆を執りこの歌仙を書を碑にしたものです 現在板垣氏邸内にある
 左上下画像は芭蕉と曾良が三泊した高野一栄亭跡である 
土蔵風土手から撮ったものだが土地の低さが分かるでしょう 
一栄亭は最上川河畔にあり船宿でもあったのです 土手が無ければ目の前に最上川が流れ町と川が一体であった事がわかる  芭蕉をして『このたびの風流ここにいたれり』
と言わせしめた大石田は静かな佇まいの町である
最上川 其の10


兵沢遺跡   尾花沢市大字下柳渡戸字兵沢
按察使将軍大野東人率いる古代6000の兵士の駐屯の名残兵沢と云う地名の成り立ちの理由だろう 続日本紀に天平9年3月10日加美郡色麻柵を出発した大野軍はその日のうちに出羽国大室に着いたよある 大室がここ兵沢遺跡の地ではないかと推定される
 尾花沢の古代魅力
ここ尾花沢は古代玉野驛(大室驛)と呼ばれ続日本紀にある記述ほど我々を夢中にさせるものはありません 
続日本紀に『・・・従陸奥国 逹出羽柵道経男勝 行程迂遠 請征男勝 以通直路・・・』『・・・以四月一日 従部内色麻柵発 即日到出羽国大室驛・・・』とある 色麻柵進軍からたった一日で大室驛に到着と言うオーバーな記述は実に日本の大本営的発表で面白い 出羽軍団500人と帰伏狄140人率いた出羽国司田辺難波が出迎えていて更に賊地に入るが雪の為進軍できず一旦多賀城に帰るのです 
再度出直して国司と共に比羅保許山(現神室山)に駐屯していた時雄勝村の俘囚の長等三人が出頭して申し出たのです 『貴軍が進軍すれば村の夷狄は山野に雌伏しゲリラ戦にでるでしょう 決して官軍にとって得策ではないでしょう』と説得され『種を蒔くのが目的で戦が目的でない』と無用の争いを避け東人は撤退を決断したのです 古代のロマン一杯の尾花沢です
 

 五月雨を あつめてすずし 最上川  西光寺にある芭蕉の句碑
 碑には さみ堂礼遠 あつめてすゝし もかミ川 と彫られてある

芭蕉と曽良が宿泊した船宿一栄亭跡

兵沢遺跡

堀の内遺跡  尾花沢大字丹生字西原
1200年前凡そ6000の官軍の兵がここに集結した 上記の兵沢遺跡同様按察使将軍大野東人の奥羽山脈の玉野新道開削した大室駅の駐屯遺跡とも推定され又仁和2年最上郡から分離した村山軍郡の郡衙跡とも推定されている 

堀の内遺跡