山形県最上郡最上町と尾花沢市を結ぶ峠
太平洋側から日本海側への奥の細道後半の起点となる 原生林が生い繁り山賊に怯え昼なお暗い困難をのりこへて後半の数々の名句を生みだす出羽路へと向った |
屈強の若者に案内されて山刀伐峠越えて尾花沢市 市野々に出た ここが山刀伐峠の出口で平坦な県道28号に出る |
大浦橋からの最上川 北村山郡 大石田町 大石田町北の端にある駒籠-大浦橋からみた最上川 数百m上流左に野尻川河口がありここが延喜式にある水駅野後(のじり)ではないかとされている 当時舟5隻・驛馬10疋・傳馬3疋とある 平安年間当時山岳で陸路が困難な山形北部の軍用・公用道路として最上川独特の水駅が設置されその一つ野尻水駅である 馬籠は馬込で馬の駐屯地を意味する |
渡舟の碑 尾花沢市毒沢
猿羽根大橋のたもとにある船見番所跡
1973年に待望の大橋が完成した |
奥の細道最大の難所山刀伐峠 |
奥の細道最大の難所山刀伐峠 奥の細道の一節
『・・・是より出羽の国に大山を隔てて道さだかならざれば・・・屈強の若者反り脇差をよこたへ樫の杖を携えて我々が先に立ち行く けふこそ必ずやあやふきめにもあふべき日なれど辛き思ひをなして後ろについて行く あるじの云うにたがわず高山森々として一鳥声きかず、木の下闇茂りあひて夜行くがごとし、雲端に土ふる心地して、篠の中踏み分け々、水をわたり岩に蹶きて、肌につめたき汗を流して、最上の庄に出づ。・・・此のみち必不用の事有。恙なうおくりまいらせて仕合せしたりと よろこびてわかれぬ・・・・』
最上川 其の12
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大浦橋のたもとにある立て看板 ここ大石田町大浦は現練り製品メーカー紀文の創業者保安邦人氏の出身地であったのです 日本一の商人を目指し雪深い大石田から上京し昭和13年25歳の時八丁堀に山形屋米店を開店した その後魚河岸に拠点を設け海産物卸売りを経て日本古来の練り製品と運命的に出会い日本一の蒲鉾屋を志し今日の土台をなした 現紀文は2代目 蜜柑で財を成した紀伊国屋文左衛門からのネーミングも如何にも古来舟運で繁栄していた大石田出身らしい
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上 渡船の碑
碑には『あなたの里は毒沢か 里の道さへ明らかにゆきつもどりつ渡し守 船呼ぶ声も聞ゆなろ』『・・・夢にまで見た橋 猿羽根大橋竣工に当り ここに昔を偲び幾多殉難者の霊を弔ひ村人の弥栄をいのりつつ記念の碑を建立す』と彫られていて最上川多くの恩恵をもたらす反面又多くの犠牲者も出していたのです
最上川にはつい最近まで橋がなく渡船に頼る生活が長く続き橋が出来ることは住民の大きな念願であったのです その間に多くの人々が渡し船による水難の為命を落としたのです その供養も兼ねている |