『最上川は私の郷里の川だから、世の人のいふ「お国自慢」の一つとして記述することが山ほどあるやうに思ふのであるが・・・』と斎藤茂吉は著書最上川に書いている最上川が文学の世界に登場するのは古今和歌集の時代からで東歌に納められてる陸奥歌である。それ以来稲舟と最上川は山形のみならず陸奥を代表する歌枕となったのである。実は古今和歌集の最上川の歌を斉藤茂吉は天皇陛下が上山へご巡幸された時『此の歌は女性が男の誘いを断った歌です』と解説したと言う。つまり『イヤと言うわけではないが、月の障りばかりはどうしようもありません』と。陛下はお笑いになっていたと言う。その数、歌い継がれて凡そ80首弱もあると言うのです。球磨川・富士川と共に日本三大急流の一つで全長232km、支流を合わせた総延長は2570kmに及ぶ。その中でも古川口から清川の18kmの渓谷が最上峡と呼ばれ春夏秋冬の風情は抜群の景観を誇る。山形の詩人真壁仁は『さながら水の廊下である』と書いているが、1県1河米沢から酒田までを繋ぐ水の道に喩えれば真に云い得て妙である。この渓谷を一時間余りで下だり船頭の歌われる最上川舟歌はあの有名なボルガの舟歌をも凌ぐものであるという。因みに世界三大舟歌と言えばロシアのボルガの舟歌・ドイツのローレライと我が日本の最上川舟歌である。最上川は米沢盆地の奥地西吾妻連邦を水源とし然も源流は二つあると言う。一つは大平温泉上流の火焔滝と白布温泉上流にある赤滝・黒滝とされている。共に福島県境にある吾妻連邦を源流としている。ここには幻の白猿の出没で知る人ぞ知る所であるそして大江町左沢(あてらざわ)から上流は最上川ではなく松川と呼ばれ清川から河口までが酒田川とも呼ばれていたのです。大河には例えば信濃川のように上流は犀川・千曲川であり紀ノ川の上流は吉野川と言うように著名な大河ほど名前が違うのも面白い所です。だから芭蕉が奥の細道で『最上川はみちのくより出でて、山形を水上とす。碁点、隼など云うおそろしき難所あり』と書いているのも納得なのです。つまり置賜ではなく山形を上流としたのです。この難所は大石田の上流にあったため大石田の河岸は大いに繁盛したのである。村山地方の咽喉部と呼ばれる由縁である。大石田河岸には荷宿商人が発展し1814年には荷宿仲間が結成され、1835年には大石田河岸荷問屋仲間も結成されている。三難所と最上峡を見ずして最上川は語る勿れとも云います。その難所は村山の中央を流れ碁点・三ヶ瀬(みかのせ)・隼の三難所の事である。碁点は水中から突出する岩石が碁石似てるからと言い、三ヶ瀬は渇水期には川筋が水面に出た岩盤により三本の流れになり三河の瀬がつまって三ヶ瀬となったと言う。隼は文字通り水勢注流が急なるをもって名づけられた所です。1580年この難所を開削して最上川舟運の発展させたのが最上義光である。つまり内陸山形市から河口酒田まで一貫して通船出来るようにしたのは山形城主最上義光が庄内を領有してからである。又その中流の東部にある白鷹町・南陽市・山形市の境堺には名君上杉鷹山が其の名から号をとったと言う994mの白鷹山がある。この様に置賜、村山、最上、庄内の県内の全域を川筋として日本海に入る大河で一県のみを流れる川としては日本一である。

奥羽山脈と出羽山脈の間を下り出羽山脈を横切って日本海に注ぎ、且つ県内一県のみを流れ山形県の総ての河川を集めて酒田に注ぐ大河である。他県の混じりけのないと言う意味でまさに山形純粋の大河なのです。凡そ県全体の76%の土地の水が最上川に注ぐのです。そして其の流域には約100万人の人が住み県人口の80%を占めるのです。正に山形の母なる河なのです。最上川日本最古の辞書である和名類聚抄には「毛賀美」と記述されてるのです。まるで養毛剤か育毛剤のCMみたいな名前だったのです。『珍しい岩石の多い所』と言う意味があるらしいのです。歌枕の最上川の初見は905(延喜5年)古今和歌集にあるが、 900年ごろと言えば878年は秋田城下で蝦夷の反乱元慶の乱、同じく天慶の乱が939年に起きている。 三代実録元慶3年(879年)3月2日条に出羽権守藤原保則の元慶の乱の戦闘終了の奏上の中に『管最上郡、道路嶮絶、大河急流,、中国の軍、路必ず此を経る』、同書仁和3年(887年)5月20日条にも『最上郡ノ地 国ノ南辺ニ在リ、山有りて隔テ 河ヨリ通ズ、夏水ニ舟を浮カベ 纔ニ運漕ノ利アリ』とあり名称の記述はないが最上川である事は明確だ。詠み人知らずのこの歌を詠んだ優雅な都に住む人はこの様な殺伐とした出羽・陸奥などは想像はしてないで詠んだのでしょう。古今集が万葉集の「ますらおぶり」に対して「たおやめぶり」とは信じられないのです。 然もこの時代に既に最上川舟運の走りとも言うべき稲の運搬がなされていたのには驚きます。 稲は否(いな)にかけてるのですがすでに山形の流通の大動脈の片鱗をを垣間見るおもいです。内陸の山形市内に船町と言う町がある。最上川の支流である須川にあって栄えた河岸の名残である。そこは最上義光によって開かれた最上川舟運は山形平野の水上交通の重要な要所でもあった。その下流須川と最上川が合流する所が天童市の湊町寺津河岸である。そこには最上川の名残の三日月湖もあるのです。又寒河江市の本楯館跡の近くには本楯河岸跡もあるのです。そして左沢(あてらざわ)の楯山城の近くには最上川舟歌発祥の地の碑も建っている。寒河江市には南朝大江氏と北朝斯波氏の漆川古戦場跡の碑もある。最上舟運の中心は県の中央にある大石田町の真ん中を南から北に流れその河岸を中心に商業・経済の繁栄を築き芭蕉をはじめ多くの文人墨客がおとずれた文化の町でもある。最上川は山形県を縦断する大動脈で県民の母なる河である。明治37年最上川沿いに鉄道奥羽本線ができるまでは山形内陸の紅花・青苧・米・雑穀を送り上方からの文化・文物・日常必需品を運んだ重用な流通手段であったのです。最上川ほど地元出羽山形に恩恵を与えた河は日本広しと云えど他には無いのではないでしょうか。
(平成19年9月10日)(参考 山形県の歴史散歩 山川出版社 日本の湖沼と渓谷 株ぎょうせい おくの細道 講談社学術文庫 日本の地名大辞典 角川書店 山形県の地名 平凡社 出羽三山への道 新人物往来社 尾花沢市史 大日本地名辞書 富山房 街道を行く羽州街道10 朝日新聞社)
   

        最上川 其の2

長井市の宮の船着場は山奥置賜地方物資集積の中心となりで船衆や引子連中で大層賑わった

舟場街道沿いにある舟場地蔵堂  寄進された鰐口には『船町中』と記載されいてその賑わい振りが偲ばれる