勤王僧琳瑞の筆による幕末の幕臣山岡鉄舟の文章
定林寺 西村山郡河北町谷地辛
琳瑞和上在何処当住知居否
と彫られているが読めないし意味不明
|
高橋泥舟の直筆の歌長谷寺境内
西村山郡河北町谷地丙 |
上 最上川三難所船下りの地 碁点 村山市河島甲 芭蕉がおくの細道で『最上川はみちのくよりい出て山形を水上とす 碁点・隼と云う恐ろしき難所有り』と書いている その難所めぐりの舟下りの碁点橋の乗船場で下流の三ヶ瀬・隼12kmを往復する 雪解けの増水時で見えないが渇水時には川底に碁石のような凝灰岩が点々と突出している 下 日本三急流 最上川三難所舟下りの碑 村山市稲下 碁点橋の西側のたもとに立っている 碁点は河北町谷地河岸の北7kmの所にある |
三ヵの瀬橋 村山市
最上川の三難所の一つ三ヵの瀬 三筋の岩盤は雪解けの増水で見えません 渇水時には三筋の細長い岩石が現れます 三ヵの瀬の由来は細長い岩礁が三層をなして縦に並んでいる事に由来する
最上川 流れさやけき 時のまも 滞ほること なかりけるかも 斉藤茂吉
|
近くの小山の羽黒神社らの三ヵの瀬橋を見下ろす
東より 流れて大き 最上川 見下ろしをれば 時は逝くはや 斉藤茂吉
最上川をこよなく愛した御存知歌人・精神科医斉藤 茂吉の長男斉藤 茂太氏は精神科医・エッセイストでマスコミでもお馴染みだ。次男北杜夫氏(本名斉藤宗吉)も精神科医・小説家でドクトルマンボウ航海記や楡家の人々は有名だ 女優の斉藤由貴は茂吉の姪にあたる
茂吉の辞世の句とも言うべき歌に
いつしかも 日が沈みゆき 空蝉の 我もおのずから 極るらしも
|
上右 一般的には聞きなれないがここ長谷寺にはが彫られている 本名は山岡精一だが母方の姓を告ぎ高橋を名乗る 泥舟は度々この長谷寺に泊まっている
上左 琳瑞は小石川伝通院内新祥院住職で水戸藩徳川斉彬に日参するほど親交があり清川八郎・山岡鉄舟・高橋泥舟とも親密にしていた 定林寺の奥さんに聞いても資料がないと言う 彼は江戸城無血開城の立役者で明治天皇の教育係として十年間も仕えた人物だがなぜここにあるのだろうか 実は鉄舟と泥舟とは義理の兄弟である事が始めて知りました 鉄舟は旧姓小野鉄太郎だが山岡家の婿養子だったのです 泥舟・鉄舟と勝海舟を通称幕末の三舟と呼ばれるが当初海舟は江戸開城の西郷隆盛との折衝を泥舟に依頼したが徳川慶喜が人格者である泥舟を離さないため泥舟は義弟の鉄舟を推薦したという 鉄舟は見事にその大任を果たして江戸城無血開城に成功したのでその名を歴史に留める事となったが海舟によると鉄舟以上に泥舟は凄い人物だったらしい 彼のざれ歌に
狸には あらぬ我が身も つちの舟
漕ぎ出ださぬが カチカチの山
無欲の性格がにじみ出てるのです 彼はここ谷地河岸から最上川を下り下流の清川で幕末の志士清河八郎に会っている 長谷寺の住職さんは彼の妹が曾爺さんと結婚してたので彼はここ河北町に度々来てここ長谷寺に泊まったと言う 河北町は中々歴史のある町なのです |
|
隼 村山市
最上川最大の難所で川幅全体が岩礁の浅瀬となっていて弘化3年には250俵の年貢米を積んだ新庄藩の船が難破し船が 安政4年には最上商人の船が破船するなど困難を極めて
最上川 上空にして のこれるは 未だうつくしき 虹の断片 斉藤 茂吉 |
最上川と大石田町
大石田町南にある虹ヶ丘公園からみた 想像していたよりこじんまりとした小さな町だった ここが往時最上川流域最大の数百隻のひらた舟・小鵜飼船で賑わった大石田湊とは想像できない 最上川 其の8
|