古来酒田の湊は袖の浦と呼ばれ陸奥屈指の歌枕の地でもあったのです。その南部にある鶴岡市と共に山形県の日本海に面した地方は庄内と呼ばれている。この庄内こそ山形・秋田両県の呼び名である出羽の発祥の地なのです。国守阿倍比羅夫の『越(新潟県)』の国の北に広がる蝦狄の広大な国土ではあるが越の出端(いではし・出っ張った所)にすぎず『出羽』と称された。後に『みちのおくのくに』が『みちのく』になったように『いではしのくに』が『では』となったのである。大和朝廷の領土北進は着々と進み647年新潟県信濃川河口に淳足柵(ぬたり)・648年同岩船に岩船柵・658年都岐沙羅柵(つきさら 鼠ヶ関?)そして683年には越国蝦夷の伊高岐那(いこきな)が俘囚の民70戸で一郡の建国を願い出て許可された。それが庄内平野南部田川流域に最初に建てられた田川郡であろうとされている。因みに田川郡では大山柵跡が発見され郡衙跡ではないかとされている。そして続日本紀によるとついに708年(和銅元年)越国出羽郡(こおり)が建郡されたのです。それが今の庄内地方なのです。そしてその後716年(霊亀2年)陸奥国から置賜・最上郡を割いて出羽郡と併せ現在の山形県の原型(出羽国)が出来たのです。出羽建国は蝦夷対策は勿論だが粛慎・渤海・靺鞨等の外国人対策も大きかったようだ。例えば渤海国は記録にあるだけでも2世紀間に34回の来朝があるのです。記録されない非公式・私的な来日は数知れなかったのではないだろうか。その開拓の拠点が出羽柵で709年(和銅2年)政府は蝦狄(いてき)征討の為の諸国の兵器を出羽柵への搬送させ、越前・越中・越後・佐渡の4カ国に命じて船100艘を征狄所へ送らせたとある(続日本紀)。又714年(和銅4年)から5年間で東海・東山・北陸三道の民1200戸が4度に渡り出羽に移転させられている。軍事力増強に必死なのが伺える。当初の出羽柵の所在は不明なのですが東田川郡藤島町古館辺りとか、船100艘の停泊出来る酒田市最上川河口付近とか諸説ある。733年には出羽国府(柵)は秋田高清水に移動したが804年『秋田は保ち難く河辺は治め易し』との理由で河辺払田(ほった)柵へ移転・818年出羽柵出羽郡井の口移転・887年酒田城輪(きのわ)柵へと移動しているのです。この度々の移動は北に伸び切った前線基地、蝦夷の抵抗の激しさ(元慶の乱等)、厳しい地形や気候の自然環境のせいかもしれない。それにしても前ページに載せた歌人で一番早いのが小野小町です。彼女の生没は不明だが凡そ850年前後とされているのです。出羽建国から未だ100年足らずの原始的酒田の湊がもう袖の浦と呼ばれ都の高貴な貴族の気になる存在になってるのが私の何時も感ずる『何故だ』なのです。鼠ヶ関から有耶無耶の関の間にある庄内は武士の城下町鶴岡市と豪商自由都市酒田市によって2分されてるのです。鶴岡と言えば本気で藤沢周平の『たそがれ清兵衛や牧文四郎の海坂藩』と想い込んでる方もいるではないでしょうか。ここ鶴岡は徳川四天王の一人で三河以来の重臣譜代の酒井忠勝の庄内藩の城下町である。以前鶴岡は大宝寺と呼ばれていて平安時代以来大泉荘の中心であった。
鎌倉時代以降は武藤氏・上杉氏、更に大宝寺を鶴岡と改名した最上氏と続き1622年酒井氏が入府し以降明治になるまで250年間14万石の城下町として質実剛健の教育・武士道文化を今に伝える歴史の街であり藤沢周平の海坂藩の町なのである。『世に船ほど重宝なる物はなし。ここ坂田(酒田)町には鐙屋という大問屋がある。昔は小さな旅人宿をしていたが、自らの才覚で稼いで近年次第に繁盛し、諸国の客を引き受け、北国一の米の買い入れ問屋となり、惣右衛門という名を知らない者はない。表口30軒奥行65軒の屋敷に家や蔵をたてつづけ、台所の様子は目覚しいものであった。・・・・十人よれば十国の客というように、ここにも大阪の人がいるかと思うと、播州網干しの人もおり、山城の伏見の人、京・大津・仙台・江戸の人が入り混じり世間話をしていたが、どの人の話を聞いても皆賢そうで一人前の仕事をさばけない人は独りもいない・・・・一年中の収支は、元旦の朝八時前になるまでわからず、ふだんは収支勘定の出来ない商売なのだ。そこで鐙屋では、儲けのあった時、来年中台所で入る物を前年の十二月に買っておき、その後には一年中入ってくる金銀を、長持ちに穴をあけてこれに落とし込み、十二月十一日に、決まって決算をするのであった。鐙屋こそは確かな買問屋、銀(かね)を預けても夜安心して寝られる宿だ』豪商鐙屋がご存知井原西鶴(1642〜1693年)の浮世草子の代表的町人物・日本永代蔵の中の一説に載ってるのである酒田港は出羽内陸との交通手段の最上川河口にありあの幕府御用商人河村瑞賢による北前船の西回り航路の整備により『西の堺か東の酒田か』と言わせしめ太平洋の石巻と共に繁栄を極めた。湊の繁華街は大阪弁でないと通じない程だったと言う。河村瑞賢は日和山下に幕府領米置場を建設し、下関・瀬戸内海を経由して直接大阪・江戸へ到る西回り航路を開拓して米どころ庄内米の回漕根拠地として栄え、京都・大阪からの物資も最上川を通じて山形・米沢・会津・仙台へと陸奥の奥深くまで供給され、出羽・陸奥紅花の陸海の交易の中継地として一手にその流通を握り1683年(天和3年)には年間2500艘余りの船の出入りが記録されている。この様に酒田は上方・江戸・東北という三つの潮目が交わる珍しい土地柄なおです。又酒田の歴史は本間家の歴史とも言われ大名貸し・商人貸し・農民貸し等で戦後GHQによる農地解放まで日本一の大地主であった本間家は『本間様には及びもせぬがせめてなりたや殿様に』とまで歌われたが、その生活は質素で温情主義・貧困救済・荘内藩への多額の献金・慈善事業・新田開発・砂防林植樹等町の発展に巨額の私財を献金しあらゆる寄付金を本間家が一手に引き受け、酒田市の税金の半分を納税していたと言う。典雅な歌枕と生き馬の目を抜く豪商のミスマッチは兎も角、その豪商達の生活が今に生きてる歴史の街酒田である。(平成19年5月28日)
(参考 鶴岡市史 新古代東北史 歴史春秋社 山形県の歴史 河出出版新社 郷土資料辞典山形県 人文社
 日本古典文学全集日本永代蔵 小学館 夢閑歩 JR東日本 街道を行く29 朝日新聞)
     袖の浦(現宮之浦) 其の2

実物の半分の北前船  日和山公園 
北前とは瀬戸内の人が日本海を北前と呼んでいたからで千石船は米俵千石を積み込めた事に由来する

河村瑞賢像日和山公園 酒田市南新町
西回り航路・東回り航路を開拓した豪商 三重県南伊勢町の極貧の農家に生まれ13歳で江戸に出て幕府の土木工事人夫頭となりその後材木商になり明暦3年(1657)八百屋お七の振袖火災(明暦の大火)で木曽福島の材木買占めで莫大な利益を得た