山形県指定無形民族文化財黒森歌舞伎   酒田市黒森村中 黒森日枝神社境内
夏の檜枝岐(福島県桧枝岐村) 冬の黒森と呼ばれるは黒森歌舞伎は江戸中期享保2年(1735)頃から黒餅地区の日枝神社に奉納・伝承されている農民芝居で300年の歴史を誇る 旧暦の正月の2月の15と17日の厳寒に妻堂連中と呼ばれる組織が運営・上演するもので雪の中での観劇なので雪中芝居とか寒中芝居とも呼ばれる 出し物の多さスケールの大きさで全国屈指の民間歌舞伎で雪中にもかかわらず県内外から多数の人々が見物に来る
 
左 鐙屋 国指定史跡鐙屋正面入り口 今でこそこの様な小さな間口だが往時は上の井原西鶴日本永代蔵の挿絵に有る様な賑わいだったのです 間口30間・奥行き65間とも云われている 色物・町人物・世話物など人間の愛欲・物欲を赤裸々に描き出した彼の人生観は『人は欲に手足がついたるものぞかし(好色一代男)』であった 

酒田発祥の地泉流寺にある徳尼公廟  泉流寺 1189年(文治5年)平泉滅亡の折遺臣36人衆が藤原秀衡の妹(又後室)と称される女性のお供をしてここ袖の浦(向酒田)に逃れ泉流庵に庵を結んだと言う 後に泉流寺となり現在に至る 彼らが地侍となり廻船業等を営み後の酒田発展の礎たとなり後に36人衆と呼ばれるようになったと言う言い伝えがある 平泉から流れてきた者との意味で泉流寺となる 粕谷家・二木家(加賀屋)・上林家・鐙屋・本間家・永田家・尾関家等は36人衆の人達なの流れと言う
 
酒田36人衆の碑泉流境内酒田市中央西町
商業都市酒田の発展は平泉から逃れた36人が酒田湊に落延び、向い酒田(最上川南岸)に住み着いたのが始まり。

2千石格式の本間家旧本邸    酒田市二番町
武家屋敷と商家造りの一体構造
 
 本間様には 及びもせぬが せめてなりたや 殿様に と歌われた本間家旧本邸は三代目本間光丘が幕府巡検使一行の本陣宿として1768年(明和5年)に新築庄内藩主酒井家に献上されその後拝領した 二千石旗本の格式備えた長屋門構えの武家屋敷造りだがその奥は商家造りとなっているこの様な二つの構造が一体となった建築は日本に唯一つ本間家のみである 『有るところの物は無いところへ 無いところには有るところから
      袖の浦 其の7            
  井原西鶴 日本永代蔵の挿絵 鐙屋
西鶴 辞世の句 浮世の月 見過ごしにけり 末二年
  
伊東不玉(玄順)亭跡  酒田市中町
酒田市鐙屋近くにある芭蕉宿泊滞在の地  芭蕉はここに6月14日から25日までの9日間もした 不玉邸跡は現在歯科医の駐車場となってるが不玉は俳人としての号で彼は本来医師で名は淵庵というが現歯科医師の駐車場跡とは偶然でしょう