上杉鷹山の側室お豊の方 江戸には正室幸姫がいた  あの堅物鷹山に側室とは驚きだがお豊の方は改革の良きアドバイザーとして内助の功の誉高い人物  年ごとに 栄えますらん 國民も 賑わう今日の 君の恵みに の歌に二人の信頼関係が伺える ここまでやれば正室も文句も言えないでしょう 林泉寺境内
右 上杉憲政の墓 照陽寺 米沢市城南5丁目 関東管領と仰々しいが鎌倉公方の補佐役で上杉家が世襲していた 所がこの憲政は一人っ子育ちの為甘やかされて育ったので民の愁いも理解出来ず驕り昂り・色に耽り➡右へ

 左から➡・酒宴に溺れる日々で鉄砲の音を聞くと頭痛すると云う暗愚な戦国武将だったため武田信玄には河越夜戦で3000の兵を失うと言う敗北を喫し北条氏康にも攻められ戦意喪失して越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼ったのです 後に憲政は長尾景虎を養子として上杉を名乗らせ上杉の家督・系図・重宝を始め管領職も譲渡したのです  家督を継ぎ義に厚い景虎は名前も憲政の政の字を一字もらい政虎と改めたのです 謙信の名は晩年になってのもの謙信死後の相続争い御館の乱で憲政は景虎側につき景勝に敗れて没す

白子神社 米沢市城北2丁目  米沢の町発祥の地ともいわれる 織物の町に相応しく白蚕に由来するらしい 和銅5年(712)創建と云われ明徳年間(1390~)には置賜一郡の総鎮守となる➡下へ

二代藩主景勝公の創建した禅林寺で今は法泉寺 米沢市城西2丁目
梅嶺院三姫二代藩主定勝公四女吉良上野介夫人 法令殷亀姫二代藩主定勝公三女松平飛騨守利明公夫人 祥壽院皆五代藩主吉憲公夫人六代宗憲・七代宗房・八代重定藩主生母の墓  実は三姫の墓から白髪の髻が入った壺が出てきた これは三姫が持っていた上野介の遺髪ともいわれ忠臣蔵の秘話として注目されている
 
下左 虎空蔵菩薩と那須与市の供養碑    下右 米沢藩学問所禅林文庫
 優嗜曇 
其の5





 
上杉家臣新貝弥七郎の墓 林泉寺境内
 吉良家の養子となった義周の小姓として江戸吉良邸にいた時に赤穂義士の討ち入りに出くわし玄関先で浪士と渡り合い討ち死にした 後日腹中から折れた槍の穂先だ出てきたと言う 堀部安兵衛の槍で突かれたのではないかの噂あり
 
赤穂藩家老大野九郎兵衛の供養碑 
福島県と山形県境板谷街道の板谷峠 世間では不忠臣とのもっぱらの評判だが浪士が討ち入り失敗した時吉良上野介は米沢を頼るだろうとの判断でここ板谷峠で待ち伏せしていたが本懐成就の報を知り安堵してここで切腹して果てたと言う 群馬県安中市甲府にも墓があり供養碑も各地にあるというのでどうも伝説の粋を出ないようだ 然しこんな山中にも赤穂浪士の伝承があるとは以外でした 然しこの板谷街道は米沢潘専用道路みたい物だから待ち伏せするにはもってこいの所ではある
上から➡ 承平2年(932)には出羽国守小野良春の再建時の鬼瓦がある 元禄6年には吉良上野介の跡継ぎの吉良義周が奉納した白子大明神の扁額があるが何と言っても圧巻は上杉鷹山藩主の倹約の誓詞でしょう 『連年国家衰微し 民人相なずみ候 因って大倹を相行い 中興仕りたく 祈願仕り候 決断若し相怠るに於いては 忽ち神罰を蒙る可き者なり 明和四丁亥年9月六日 藤 治憲』とある これが17歳鷹山の誓詞である 真に恥じ入るばかりだが現日本人品質の劣化は甚だしい思いである 扁額と誓詞は市の文化財ある
上杉家と吉良家の関係は 三代上杉定勝の娘参姫が吉良上野介義央に嫁ぎその息子吉良綱憲が今度は4代上杉綱勝の養子に入り5代上杉綱憲となるのです 更に其の子上杉義周が今度は吉良家上野介の養子となり吉良家の家督を相続している この様に上杉家と吉良家とは二重三重の深いつながりで結ばれていたのです 其の中で起きたのが皆さんご承知の赤穂浪士の吉良邸討ち入りです 当然米沢上杉も無縁ではなかったのです  大野九郎兵衛は開城穏健派・原総右衛門は篭城急進派・大石蔵之助がその中間派である 残務整理の退職金でも開城派と篭城派とは意見や言葉の食い違いから誤解と偏見から大野は暗殺を恐れて夜逃げと云うより身を隠したと言う方が正確のようだ 大石との間に赤穂浪士第二陣の密約が有ったとかなかったとか色々伝承はあるらしい

那須与一が何故米沢に? 那須家の子孫の千坂家は上杉謙信の重臣であったので上杉の移動とともに米沢に供養塔が出来たようだ 塔には那須与市宗高公と千坂対馬守景親公と彫られてる

直江兼続が禅林寺を創建し寺内に藩校として創建された 後に上杉鷹山によって興譲館として受け継がれた文殊堂と孔子を祀る聖堂 堂の扁額は鷹公の真筆である 法泉寺にある