越もせず 過ごせもやらぬ 三つの森 とやとやとりの うやむやの関 ? 霧ふかき とやとや鳥の 道とへば 名にさへ迷う 有耶無耶の関 群書類聚 むやむやの 関のもみじの 散るときは いづさいるさに 錦をぞ着る 林葉和歌集 俊恵 宿世やな なぞいなむやの 関をしも 隔てて人に 音を鳴かすらむ 散木奇歌集 源 俊頼 枝折りして いづさいるさの 武士よ 心なとめそ いなむやの関 明日香井和歌集 明日香井 雅経 たのめこし 人の心は 通ふやと 問いても見ばや うやむやの関 土御門院御集 土御門天皇 武士の いづさ入るさに 枝折する とやとやとおりの むやむやの関 夫木和歌集 詠み人知らず 東路の とやとやとほりの 曙に ほととぎす鳴く むやむやの関 夫木和歌集 詠み人知らず |
大師崎 山形県飽海郡遊佐町〜秋田県にかほ市 伊能忠敬は1802年(享和2年)其の難所振りを測量日記に記している『此の村より外迄七八丁ハ道も上下よし、長持ちハ小砂川より女鹿村迄舟廻にす、馬荷にも亦同し、夫より道途曲々、且狭く、其上丸石岩石おほく、上下度々ありて其の行路難し、駕籠も人夫大勢ニ捧げて通るなり、馬・駕籠ニに乗ることならざる所なり、海へ出岬を大師崎と言、亦三崎共言、里人言、観音、不動、勢至ノ三仏ニ似たる岩石あるニよりて号スと、其脇を通る、此所則鳥海山の麓の流(スソ)なり、大師崎の上ニ大師堂あり、由利郡・飽海郡の界・これよい南庄内領となる』と書いている 岩場を縫って滋覚大師開削と伝え15世紀以降日本海に沿う唯一の街道として重要で有ったと言う(秋田県の地名 平凡社) 峠の中間にある一里塚 有耶無耶の関はこの付近にあったと思われるが標識はなかった 明治9年県令三島通傭が馬車の便を良くするため改修工事をするまでは峻坂絶壁が連なる天然の要害の地であったのです そのため藩主酒井候は麓の女鹿に関所を置いたのです 大正9年には鉄道も開通した |
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贅沢にも山形県には有耶無耶の関が二ヶ所もあるのです。宮城県との県境国道現286号近くの笹屋峠とここ秋田県との県境国道7号線三崎峠にである。前者は山で後者は海である。芭蕉は奥の細道でこの旅の最後の大きな目的の一つである象潟に向けて『酒田の湊より東北の方、山を越え、磯を傅ひいさごをふみて、其の際十里、日影やゝかたぶく比・・・・』『・・・南に鳥海天をさゝえ、其の陰うつりて江にあり。西はむやむやの関路をかぎり東に堤を築きて秋田に通ふ道遥かに・・・・』と淡々と述べてるだけである。然し同行の曾良の旅日記では『十六日吹浦ヲ立。番所ヲ過ルト雨降出ル。女鹿。是ヨリ難所、馬足不通。大師崎共、三崎共云。一里半有。小砂川、御領也。新庄預カリ番所也。入ニハ不入形。塩越迄三リ。半途ニ関ト云村有。ウヤムヤノ関成ト云。此間、雨強ク甚濡。』と馬も通れ無い程の険しさと土砂降りの雨に閉口している。また1696年(元禄9年)芭蕉の弟子の天野桃隣が師の後を辿った紀行文陸奥衛(むつちどり)では『・・・さかたより象潟へ行道、かたのごとく難所、半分は山路、岩角を踏、牛馬不通、半分は磯伝ひ、荒磯のこぶり道、行き々て塩越則象潟成り』とあり当時は相当な難所であった事は間違いない。この難所は勿論東北第二の高山(2236m)で名峰鳥海山の噴火により海岸まで流れ出た溶岩の積み重ねと度重なる日本海地震による海水侵食によって出来たものであの天下の剣箱根峠より険しかったと言うのです。江戸の旅行家古川古松軒は東遊雑記に『遠見せる風景和国の山と見えず。数十里外より見ても、その雅なる所いわんかたなし。予が思うところ、当山は富士山に続く名山なるべし』と絶賛している。今でこそ秀麗な鳥海山だが平安時代には数回の大噴火があった記録があるのです(参照 秋田象潟其の2)。871年(貞観13年)4月には山頂に火が見え、土石を焼き、雷鳴がとどろき、山から流れ出る川は、青黒い臭気に満ちた泥水があふれ、死魚が多く浮かんだ。長さ十丈(幅30m)ほどの大蛇(火砕流)が二匹現れ、流れて海に入り、無数の小蛇がそれに従い、さらに石鏃(石やじり)が多数降ったという記録があるのです(日本三代実録・続日本後記)。占うとこの山の神大物忌神社に祈願をしておきながら御礼もしていない事、 | 又山中の墓に埋葬した骸骨が山水を汚すことで神の怒りに触れた事が判明したと言うのです。こんな事から恐ろしい手長足長怪獣伝説が三崎山に出来上がりこの峠を越える旅人を捕まえて食べた事になったのです。それを見かねた三本足のやた鴉が気の毒に想い怪獣がいるときは『有耶』と鳴き、いないときは『無耶』と鳴いて峠の安全を知らせた事から有耶無耶の関となった云うのです。出羽の国司達はこの神を篤く信仰し従四位下の神階と封戸(財源となる家)二戸を授与してる。如何でしょう。現在の世相の混乱は此の世の中にこの様なたわいの無い恐れ慄く対象物が無くなってしまった事による不幸なのです。普段何気なく使っている『有耶無耶・うやむや』の『や』は疑問助字であるから『あるのか?ないのか?』『はっきりしない事』『いい加減な事』『曖昧模糊』となるが、このフレーズは元々インド仏教が発祥らしい奥深い言葉なのです。インド人は真理を追求するのが好きな国民らしいのです。例えば数字の『0』の発見はインド人だがこれこそ真理の追求の辿り着いた最たる物でしょう。それが昂じて『物質的現象に実態性は有るのか?無いのか?』『精神はそれ自体で存在するのか?しないのか?』『死後の世界は実在するのか?しないのか?』等抽象的仮説論争ばかりがが横行していた。5世紀に釈迦が現れ弟子達には悟りと成仏の自己研鑽の道筋のみを説き、それとは関わりのない解答不能な問題での不毛な議論『ありや?なしや?』を戒めたのです。それからいい加減で曖昧はっきりしない態度を『有耶無耶』な態度となったのです。如何でしょうか 有耶無耶は真理探求者の究極の命題であったとは驚きました。尚この近くから中国殷の時代(紀元前17〜11世紀)の青銅刀子・蕨手刀子が発見されすでに日本海と大陸との交易があった証拠となった。 殷は別名商とも呼ばれ商人の語源ともなった国だから日本に売り込みに来ても不思議ではない。 (平成19年6月5日)(参考 おくの細道 講談社学術文庫 奥の細道とみちおく文学の旅 里文出版 秋田市史 成語大辞典 主婦と生活社 秋田県の地名 平凡社 江戸百名山図譜 小学館)
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