上 群馬県指定史跡馬庭念流道場 念流は慈恩念大和尚(相馬四郎義元)が創始し慶長3年(1589)念流七世友松偽庵氏元が樋口又七郎定次に伝え定次は念流八世となり中興の祖と仰がれる 馬庭念流道場倣士館は慶應8年(1867)に門人たちにより建てられたもので数百年の星霜を越えて念流宗家と道場が現代に生き続ける事は全国に例がない(説明板) 上信電鉄馬庭駅前に多胡の嶺の歌碑がある飯玉神社から車で5分位のところにある(説明板)
 吉良家は慶安3年(1650)から元禄16年(1703)まで藤岡市白石に720石を有しここ字中郷に屋敷を作り治めていた 吉良若狭守の正室が伊香保温泉の帰途この舘に立ち寄り上野介を生んだ その産湯を汲んだ井戸が残されている 井戸水は毎月一回赤く染まるので汚れ井戸と呼ばれて飲料水にはしなかったと言う 尚当地では吉良上野介を敵役とする忠臣蔵は厳禁とされた(説明板)
上 土師の辻(藤岡市)
相撲辻
とは屋外で行った相撲の土俵(土壇)とその場所を意味する 土俵は伏せた擂鉢状で高さ1.6m・上円部径4.95m・基底部13m.傾斜22度・斜長4.5mっである 日本三辻の一つで他は摂津国住吉神社能登国の羽咋神社である 明治以降は行われていないが以前は出世力士の披露相撲が行われるのが通例で勧進相撲が奉納された 幕内力士でなければ壇には上がれなかった(説明板)
上中 多胡の嶺
多胡の嶺
は高崎市吉井町南西部連なる丘陵部である牛伏山とか城山ではないかとされている 土地の人たちは多胡美人と呼んでいるそうだ 巻14-3411の歌にある『いくら声をかけても俺にはちっとも見向きもしない 可愛い顔をしてるからか?』に由来するのかもしれない
左2枚 関孝和の墓と銅像(藤岡市)
寛永14年(1637)藤岡市に生まれた 宝永5年(1708)江戸で亡くなる ライプニッツやニュートンと共に世界三大数学者と呼ばれている 昭和4年に像の脇にある算聖の碑が建てられ同63年に関孝和の像が建立された 昭和33年没後250年を記念して東京浄輪寺より御霊を分霊して縁の地藤岡市光徳寺にお墓を設けたのです(説明板)
一般的に我々21世紀に生きる者でさえ数学・物理学は苦手だがもう鎖国の時代に西洋数学にも負けない和算学を確立した独自性には感心する 11桁の円周率や微分・積分の一歩手前まで迫りn次連立方程式の解を求める式も確立したという(ウイキペディア) 頭が下がります
 
     多胡の入野 V