左上 大小便きんせいの碑
 古くはこの辺りに栃御門(桜門)・下乗石・木の鳥居などがありこれから先は滝尾神社の聖域に入るので大小便を禁ずる碑が建てられた 然も字の読めない庶民の為に大小便は漢字だがきんぜいは平仮名なのが面白い
下2つ 白糸の滝とその碑
 碑には大正5年9月7日 大正天皇御?? 白糸の滝 と彫られてるがあまりの苔に字が読めない
 白糸の滝は弘法大師修行の地
文明18年(1486)京都聖護院の道興准后が日光を訪れた時その紀行文回国雑紀には
世々を経て 結ぶ契りの 末なれや 
       この滝尾の しら糸の滝
と詠んでいる 共に滝尾道の傍らにある 
県指定史跡殉死の墓
譜代家臣の殉死の墓は初代家康・2代目秀忠に仕えた重臣たち19名の墓である  慶長15年(1610)〜寛文8年(1668)の58年間の墓碑である 流石初代・2代徳川家に仕えた重臣・忠臣の墓だけに高さは3m近くある大きなものだ
陽明門・輪王寺・白糸の滝も殉死の墓もこれも日光です 然しこのエリアにまで足を運ぶ人影はありませんでした (説明板)
現代から見れば実に馬鹿々々しい殉死だが一番多く殉死されたのが伊達政宗の15名だそうだ
 
 
コ川家譜代の前後2列の墓 前列奥から5番目が五重塔を建てた酒井忠勝墓碑
 下2つのうち左側が日光杉並木25000本を寄進した松平正綱である 右側が築城の名人藤堂高虎の墓碑である 彼は6つ以上の城を造り 武士たるもの七度主君を変えねば武士とは言えぬ の名言通り浅井長政から徳川家光まで11人の主君に仕えた 
二荒の山 ]
 県指定史跡釈迦堂殉死の墓及び譜代家臣の墓 5名の殉死の墓5基 手前列左端には小さくて見づらいが碑がある 殉死5名は3代将軍家光の死に際し 堀田正森盛・阿部重次・内田正信・三枝守恵・奥山安重の各重臣が殉死した 殉死は一度に多くの有能な家臣を失うことから寛文3年(1662)4代家綱の時代に幕府は殉死禁止令出したのでこの5名が最後の殉死者となった